1.1. 緒言
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表面に吸着した原子と基板表面との相互作用は様々な条件によって多彩に変化し大変興味深い。たとえば、同じ吸着原子-基板を考えても吸着原子量を変化させた場合、吸着量の増加とともに吸着原子-基板間の化学結合が弱められるかどうかは、非常に単純な疑問にもかかわらず容易には解答を得ることはできない。
本研究では、Cl/Ni(100)およびCl/Cu(100)系の表面Cl-金属結合が、Clの吸着量の変化に伴いどのような挙動をとるかを、Cl-K吸収端表面EXAFSの温度変化を測定することにより調べた。得られた実験結果を理解するために密度汎関数法を用いた分子軌道法により表面クラスター計算を行った。詳細は原著文献[1,2]を参照されたい。
1.2. 実験
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実験はPF BL-11Bの二結晶ビームライン[3]において行った。
超高真空槽(base pressureは1x10-10 Torr以下)内でAr+スパッタリングとアニーリングにより清浄化したNi(100),Cu(100)単結晶表面を適当量のCl2ガスに曝すことで吸着表面を作成した。Cl2ガスは、少量のCdCl2を含んだ固体AgClを電気分解することにより得た。
この方法では容易に指向性の良いCl2銃が作成でき、Cl2による真空槽の汚染が無視できる上、通電量により適切に発生塩素量を制御できるという利点がある。実際に測定を行った試料は、Cl/Ni(100)系でCl
0.50 ML(飽和吸着、MLはCl原子数と表面第一層Ni原子数の比)と0.25
ML、Cl/Cu(100)系で0.50 MLと0.12 MLである。吸着量はいずれの系でも飽和吸着量を既知の0.50
MLと仮定し、低吸着量の相対値をEXAFS測定に用いたCl-K蛍光X線収率から算出した。
Cl-K吸収端EXAFSは、X線の入射角を(斜入射), (直入射)とし、測定温度を100, 300 Kとして、Cl-K蛍光X線収量法により測定した。蛍光X線は超高真空仕様の比例計数管(Ar90%+CH410%のP10ガスを利用)を用いて検出した[4]。
1.3. 実験結果
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図1、図2にCl/Ni(100)系のCl-K吸収端EXAFS関数およびそのフーリエ変換を示した。図1、図2はそれぞれ0.25
ML, 0.50 MLに対応し、実線はFEFF6を用いた理論計算値である。FEFF6計算は図3に示したような表面クラスターを仮定して行った。ただし、0.50
ML吸着では図3の3番にあたるCl原子を配置し、0.25
MLではこのCl原子がないとした。いずれもFEFF6で得られた曲線は実験とよく一致しており図3のモデル構造が妥当であることがわかる。特に図2(d)の直入射のフーリエ変換で3.1 Åあたりに現れているCl3に起因するピークが0.25
MLの図1(d)では現れておらず、低吸着相でClが隣り合っていないことを示している。詳細な構造解析結果についてはここでは省略する。直接原著論文を参照されたい。
EXAFSの温度変化を直接化学結合したCl-Ni,
Cl-Cu配位に関して解析した。単一種の散乱原子によるEXAFSの表式はのように書ける。ここでは温度依存性がほぼ無視できる振幅部、は位相シフト(温度依存性は無視できる)、R, C2, C3はそれぞれ原子間距離、MSRD, MCRDである。C2, C3は温度依存性が大きく、Rも熱膨張によりわずかに温度変化する。実際の実験データではやを含むため温度変化をとった方がわかりやすい。つまり, を求めることになる。 |
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図1 0.25 ML Cl/Ni(100)系の100 KにおけるCl-K吸収端EXAFS関数 (a,b)およびそのフーリエ変換(c,d)。X線の入射角は(斜入射)および (直入射)、実線はFEFF6によるシュミレーション結果、破線が実験値。フーリエ変換においては300
Kのデータも点線で示した。フーリエ変換で2.0
Å付近のピークが第一配位Cl-Niに対応している。 |
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図3 c(2x2)Cl/Ni(100), Cu(100)系の表面モデル構造。番号0がX線吸収原子のCl、0.25
MLでは3番のClがない構造になっている。 |
図2 0.50 ML Cl/Ni(100)系の100 KにおけるCl-K吸収端EXAFS関数 (a,b)およびそのフーリエ変換(c,d)。X線の入射角は(斜入射)および (直入射)、実線はFEFF6によるシュミレーション結果、破線が実験値。フーリエ変換においては300,
500 Kのデータも点線で示した。フーリエ変換で2.0
Å付近のピークが第一配位Cl-Niに対応し、直入射において3.2
Å付近にCl-Cl配位によるピークが現れている。 |
図4にCl/Cu(100)系におけるCl-Cu第一配位EXAFS関数を示した。これはフーリエ変換スペクトルにフィルターをかけもう一度逆フーリエ変換して得られる。図4(a)(b)とも温度が高ければ振幅が減衰し位相の遅れも顕著になっている。これはそれぞれC2, C3の増大で説明できる。(a)と(b)を比べると(b)の低吸着量の方が振幅位相とも温度変化がより顕著である。このことは低吸着量の方が結合が弱いことを示唆している。
Cl/Ni(100)の解析を含めた結果を表1に与え、図5に各系での, を原子間距離Rの関数として示した。Cl/Ni(100)系ではCl/Cu(100)系と逆の結果を与えたことは注目に値する。即ち、Cl/Ni(100)系では吸着量の大きい方が, が大きく、一方、Cl/Cu(100)系では吸着量の小さい方が, が小さいという結果である。簡単に二体の3次の非調和ポテンシャルを仮定するとC2, C3はで与えられる。得られた, , r0をやはり表1に示した。Cl/Ni(100)系では吸着量の大きい方が2次の力の定数が小さく、3次の定数は大きくなっている。即ち、吸着量の大きい方が結合が弱く、非調和性も大きいといえる。一方、Cl/Cu(100)系では吸着量の大きい方が結合が強く、非調和性は小さくなっている。
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図4 (a) 0.50 MLおよび(b) 0.12 ML Cl/Cu(100)系の第一Cl-Ni配位の抽出EXAFS関数。X線の入射角は(斜入射)、実線は100 K、破線が300 K。(b)の0.12
MLの場合の方が、高波数側での振幅の減衰や位相の遅れが顕著である |
系
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Cl/Ni(100)
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Cl/Cu(100)
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吸着量(ML)
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0.25
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0.50
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0.12
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0.50
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(10-3 Å2)
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3.7
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4.4
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6.8
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6.2
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(10-4 Å3)
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1.0
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2.6
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13.6
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7.4
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(mdyn /Å)
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0.58
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0.51
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0.35
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0.38
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(mdyn /Å2)
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0.21
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0.38
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0.65
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0.46
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表1 Cl/Ni(100)およびCl/Cu(100)系のCl-K吸収端EXAFSの温度変化解析結果。Cl/Ni(100)系では吸着量の大きい方が結合が弱く、非調和性は大きくなっている。Cl/Cu(100)系では逆の傾向が見られる。 |
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図5 Cl-metal結合の100 Kおよび300 KにおけるMSRD,
MCRDの差, をCl-metal結合の距離の関数としてプロットしたグラフ。結合距離の増加に伴い, も増大し、結合が弱まり非調和性も増加することを示唆している。 |
1.4. 計算結果および考察
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Cl/Ni(100)とCl/Cu(100)系は吸着構造が極めて類似しているにもかかわらず吸着量によるCl-金属間結合の変化は全く逆の傾向を示した。単純にはClは陰イオン的であり、Clの吸着量が増えるとCl-Cl間に斥力が生じ吸着状態が不安定化すると思える。Ni(100)ではこのことがあてはまるかもしれない。この挙動を理解するために密度汎関数法に基づいた分子軌道計算を表面クラスターモデルを組んで行った。NiまたはCuを表面第一層に16原子、第二層に9原子置き、表面第一層の上方の4回対称hollow位置にCl原子を5個(飽和吸着状態)または1個(低吸着量状態)配置した。Cl原子と表面第一層との面間隔Zを変化させて全エネルギーを計算し、安定な面間隔を求めた。
図6に全エネルギーの相対値を面間隔Zの関数として示した。Ni25クラスター上ではCl5の方がCl1より長距離側で極小をとり、逆にCu25クラスター上ではCl5の方がCl1より短距離側で極小をとることがわかり、定性的に実験で観測された挙動をうまく再現している。計算結果の詳細な解釈は原著に譲るが、Cl原子の電荷に興味深い挙動が見られる。Cu25上でのClの電荷はCl1で-0.25, Cl5で-0.13と吸着量の増加に伴い負電荷量が減少するのに対し、Ni25上ではCl1で-0.23, Cl5で-0.33と吸着量の増加に伴い負電荷量が増加していた。いま、もともとClは-1価の陰イオンと考えて、これがNiやCuに電子供与することで化学結合が生じるとする。Niの場合、電子はNi3dレベルに移動するが、Ni3d軌道はかなり局在しているので電子間反発のためCl量が多すぎると電荷移動を受けつけなくなり、吸着量が多いほどClの負電荷は大きくなる。Cl-Ni間結合は共有結合性が減少、イオン結合的になり結合は弱められる。あるいはCl間の負イオン反発のためCl-Ni間結合が弱められたと考えてもよかろう。一方、Cuの場合はClの電子がCu4sレベルに移動し、4sレベルは非局在化しており電子間反発も小さく吸着量が増えるほど電荷が中和される方向に働く。吸着量が増えるとイオン結合的でなくなり、共有結合性が増大するので、結合距離が短縮する結果となる。 | |
図6 ClxM25クラスター(x=1,5; M=Ni, Cu)のポテンシャルエネルギー曲線。横軸はClと表面との面間隔。CuではCl量の増加に伴い安定結合距離が短縮するのに対し、Niでは伸張する結果が得られ、実験と対応している
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Cl/Ni(100)とCl/Cu(100)系のCl-金属間表面化学結合のCl吸着量依存性をCl-K吸収端EXAFSの温度変化により調べたところ、Ni上ではCl吸着量が高くなるとCl-Ni結合が弱められ、Cu上では逆に吸着量が高いほどCl-Cu結合が強められるという結論を得た。密度汎関数法によるクラスター計算でもこの結果が裏付けられ、違いの原因が、Cl-metal間の結合にNiでは3d軌道、Cuでは4s,4p軌道が関与していることに由来すると推定できた。
<参考文献>
- T. Yokoyama, S. Terada, Y. Okamoto, M. Sakano,
T. Ohta, Y. Kitajima, M. Tischer and K. Baberschke,
Surf. Sci. 374(1997) 243.
- M. Kiguchi, T. Yokoyama, S. Terada, M. Sakano,
Y. Okamoto, T. Ohta, Y. Kitajima and H. Kuroda,
Phys. Rev. B56 (1997) 1561.
- T. Ohta, P. M. Stefan, M. Nomura and H. Sekiyama,
Nucl. Instrum. Methods A246 (1986) 373;
M. Funabashi, M. Nomura, Y. Kitajima, T.
Yokoyama, T. Ohta and H. Kuroda, Rev. Sci. Instrum. 60 (1989) 1983;
Y. Kitajima, J. Electron Spectrosc. Relat. Phenom. 80 (1996) 405.
- M. Funabashi, T. Ohta, T. Yokoyama, Y. Kitajima
and H. Kuroda, Rev. Sci. Instrum. 60 (1989) 2505.
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